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三代会長と北海道

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戸田城聖第2代会長と北海道



戸田城聖第二代会長
戸田城聖第2代会長
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人生の原点

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北の地へ再び

「この地球上から悲惨の二字をなくしたい」との烈々たる決意で、民衆の幸福のために生涯を賭した戸田城聖第2代会長。「地球民族主義」を掲げ、核兵器全廃をさけんだ宣言は現在の創価学会平和運動の原点となっている。北海道厚田村を故郷とし、1958(昭和33)年4月2日に58歳の生涯を終えるまでの、波乱に満ちながらも仏法を現代に息づかせたその人生は、今も永遠の光彩を放っている。

                   
人生の原点
石川県塩屋から厚田村へ

第2代会長・戸田城聖は、1900(明治33)年、現在の石川県加賀市塩屋で生まれた。北前船の仲買商を営む父・甚七、母・すえの七男で甚一と名付けられた。父の甚七は若いころから北前船にのって北海道と往き来していた。当時は帆船から蒸気船への転換期でもあり、陸地の鉄道も整備される中、北前船は衰退時期にあったため、1902(明治35)年、甚七はそれまで何度も行っている北海道厚田村に一家あげて移り住んだ。



戸田第2代会長が幼少期に過ごした北海道・厚田村の生家(移築・復元)

戸田第2代会長が幼少期を過ごした北海道・厚田村の生家(移築・復元)

「ナポレオン」と呼ばれた少年時代

1908(明治41)年、厚田の尋常小学校に入学。当時、甚一は世界史の授業でナポレオンのことを、担任教師よりよく知っていたことから、皆で甚一から話を聞いた。以来、尊敬の念をこめて「ナポレオン」と呼ばれるようになったという。

札幌・小六商店での苦学

1914(大正3)年、厚田尋常小学校高等科を首席で卒業したあと、札幌の南1条西2丁目に店舗をもつ「小六合資会社」という小間物雑貨の卸店に年季奉公に出た。荷車を引いて、商品の配達や発送などに従事するかたわら、天下有為の人材たろうとする、あふれるばかりの情熱で勉学に取り組む。その結果、1917(大正6)年には目指していた小学校の准教員の資格試験に見事合格する。

小六合資会社時代の戸田第2代会長

小六合資会社時代の戸田第2代会長

夕張で小学校の教員に

1918(大正7)年6月に夕張・真谷地尋常小学校の代用教員として採用され、12月には正教員試験にも合格。 話題が豊富で、話術の巧みな戸田の話に、子どもたちは授業の終業の振鈴が鳴っても彼のそばをはなれなかったという。

真谷地尋常小学校で子供達と

真谷地尋常小学校で子供達と

文部大臣への建白書

戸田は、教育現場で実感した問題点を論じた教育改革の「建白書」を文部大臣に提出する熱血青年だった。教員の待遇改善、校長試験の設置の必要性など、その視点は、奇しくも後年師事する牧口初代会長の教育学とも通じるものがあった。

母からもらった"アツシ"〜東京へ

1920(大正9)年、青雲の志捨てがたく20歳で上京を決意した戸田は、その前に厚田に立ち寄った。真剣な思案の末、東京で自分の人生をかけてみようと決めた息子に、父は「往け!勇気をもってな」と、伝家の日本刀を差し出した。母は夜なべで一針一針縫いあげた“アツシ(綿入りの半纏)”を贈った。後の昭和20年7月、牢獄を出た戸田は、このアツシが無事に家にあることを知り、“これがあれば大丈夫だ”と語ったという。



アツシ繊の半纏(ほんてん)

アツシ繊の半纏(はんてん)

生涯の師・牧口常三郎との出会い

上京した戸田は、知人からの紹介状を持ち、当時西町尋常小学校の校長だった牧口初代会長と出会った。初対面の牧口に、戸田は「同じ北海道からやってきました。私は、どんな劣等生でも優等生にしてみせます。先生、私を使ってください。」と語ったという。以来、生涯にわたり師弟の道を貫くことになる。

牧口初代会長と戸田第2代会長

牧口初代会長と戸田第2代会長

北の大地に再び
昭和13年、師とともに来道

1923(大正12)年には補習塾である「時習学館」を設立し、独創的な教育を行った。1928(昭和3)年には、牧口初代会長に続いて日蓮大聖人の仏法に帰依した戸田は、1930(昭和5)年の創価教育学会の創立後、1938(昭和13)年6月に牧口と共に北海道各地を訪れている。

戦後再び北海道の土を踏む(戦後来道1)

1943(昭和18)年、治安維持法および不敬罪の容疑で牧口会長と同じ日に逮捕され、拘置された戸田は1945(昭和20)年7月3日出獄。名前を「城聖」と換え、会の名称も創価教育学会から「創価学会」に改名して再建に尽力した。1951(昭和26)年5月3日には、第2代会長に就任した。戦後再び北海道の土を踏むのは、1953(昭和28)年8月17日のこと。全国では第1回夏季弘教が行われており、北海道でも8月12日から札幌と函館を舞台に、弘教を推進。この月、札幌と函館に班が誕生した。戦後初の来道を果たした戸田は、17日に函館(共愛会館)で、19日に札幌でそれぞれ講演を行った。
また、21日には父・甚七の法要のため郷里の厚田を訪れた。前年、ニシン漁が不漁で生活苦に悩む人々が多いと聞き、帰京後、村に見舞金を寄贈。その真心を生かし、村では、年末に村民に“正月の餅代”として贈っている。



札幌にて

昭和28年・札幌にて

弟子と共に夏季折伏(戦後来道2)

翌1954(昭和29)年の8月10日から10日間、全国で第2回夏季弘教が行われた。初日から戸田は、池田名誉会長(当時・青年室長)と共に北海道を訪問。札幌、函館、小樽、旭川(旧旭川公民館)、岩見沢を訪れ、会員の指導を行った。15日には、帯広、夕張、幾春別、室蘭などから全道の代表が集い、札幌で「北海道大会」(丸新旅館)が開催。戸田は、勤行と弘教の実践の重要性を語り、指導・激励した。今回の夏季弘教では、函館が全国一の結果を示し、札幌、旭川なども健闘。この年、函館と旭川が「地区」に昇格した。
また、厚田村にも3日間帰郷。戸田と行動をともにした名誉会長は、恩師・戸田をはぐくんだ厚田の海岸で世界広布を誓願した。



昭和29年・旭川にて

昭和29年・旭川にて

図書贈呈運動の淵源

1954(昭和29)年8月、第2回夏季弘教の期間中、北海道を訪問していた戸田は、各地での指導を終えて、池田名誉会長(当時・青年室長)とともに故郷・厚田村に3日間帰郷した。夜、村長や村の名士、親せきなど十数人で食事をしながら、歓談のひとときをもたれた。その折、小・中学校の校長より図書が全般的に不足している現状を聞いた戸田は、帰京後、厚田中学校と厚田小学校に図書を寄贈した。今日、創価学会の教育・文化運動の一環として行われている図書贈呈はここに源を発している。

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図書贈呈についてはこちら

厚田小学校にて図書贈呈

現在も継続している図書贈呈
(H15・厚田小学校にて)

子母沢寛と戸田城聖

厚田村出身の作家に『勝海舟』や『新選組始末記』などで知られる子母沢寛がいる。そのせいもあって、戸田とは深い親交がり、戸田が経営していた出版社からは本も出していた。1940(昭和15)年、戸田が江戸初期の土佐藩執政・野中兼山をモデルにした子母沢寛の小説『大道』を出版するとき、出版社の名前を「大道書房」とした。また、戦時下の獄中から戸田が子母沢寛に送った手紙の中に「私の留守中、お世話ただただ感謝致しております。勝安房守の第五巻出版の事、心配していますが、私が帰るまで一切の交渉事、不自由も腹立ちもありましょうが、お待ちください……」とある。獄舎にあっても、戸田は、同郷の知己への心遣いを忘れなかった。

歴史に残る「小樽問答」(戦後来道3)

過去2回の夏季弘教で飛躍的に会員数が伸びた北海道。そのなかにあって、1955(昭和30)年2月、信者数の減少から危機感を募らせた日蓮宗身延派が、改宗したばかりの会員を連れ戻そうとしたことが発端となり、「小樽問答」が起こった。
同年3月に北海道各地を親修で訪れる日蓮正宗宗門側のスケジュールにあわせて、現地の小樽で問答日程を決めたものの、日蓮正宗宗門側は、その日を避けるように親修日程を変更。宗門から説明を受けた戸田は「この法論は私がお引き受けいたします」と問答を受けて立ったのである。法論対決の当日である3月11日、会場の小樽市公会堂へ向かう。学会側の大勝利で終了後、参加者を励ました。翌12日には札幌で行われた質問会(グランドホテル)に出席した。



小樽問答会場にて

昭和30年・小樽問答会場にて

新たな栄光刻んだ「札幌・夏の陣」(戦後来道4)

同年8月、全国で第3回夏季折伏が行われた。北海道でも8都市で仏法対話の花が咲いた。その最中の8月18日、戸田は札幌へ到着。20日には、旭川地区総会(神楽中学校講堂)に出席し、「絶対的幸福を得ることが人生の楽しみであり、人間革命である。すがすがしい信心こそ、断じて幸福になれる秘訣である」と激励した。その後、夕張班大会(若菜小学校)にも出席し、小樽、函館にも足を運ぶなど、全道を駆け巡った。24日には、札幌班大会(札幌商工会議所)で講演も行った。このとき、札幌は班から地区へと昇格した。この夏季弘教で札幌は全国一の388世帯を拡大。「札幌・夏の陣」として栄光に輝く新たな広布史を刻み、戸田の生涯の願業であった75万世帯への大きなステップとなったのである。



昭和30年・函館にて

昭和30年・函館にて

全道5都市を訪問(前後来道5)

1956(昭和31)年のこの年、戸田は3度にわたって北海道を訪問した。戦後5度目の来道となった6月は、11日から16日にかけて道内5都市を訪問、各地の友を激励した。11日の札幌に続き、翌12日の夕張では列車を降りた一行を大勢が歓迎。13日には旭川を訪れ、指導会(ステーションホテル第一会場)を開催、空知方面からも多くの会員が駆け付けた。質問会では、病気の悩み、活動の問題、信仰の在り方など、さまざまな質問が飛び交い、戸田はユーモアを交え、納得するまで語りかけた。その後、再び札幌に戻って指導会(丸新旅館別館)を行ったあと、小樽、函館にも赴き、求道心あふれる会員を励ました。



昭和31年・旭川にて

昭和31年・旭川にて

道内に4支部が誕生(戦後来道6)

8月15日、北海道指導に赴いた戸田は会員激励に全力を尽くした。その傍ら、親戚の法要参加のために故郷の厚田を訪れた。その折、母校である厚田小学校・中学校に、それぞれ寄付。この寄付をもとに、学校ではオルガンを購入した。
この8月、札幌、旭川、函館、小樽の4支部が誕生。26日に東京で開催された「全国新支部結成大会」に北海道からも多数の代表が参加し、戸田から支部長一人ひとりに、支部旗が授与された。



戸田第2代会長の寄付金にてオルガンを購入(厚田小学校)

戸田第2代会長の寄付金にてオルガンを購入(厚田小学校)

旭川で真の供養の精神を語る(戦後来道7)

11月21日、北海道では旭川市に初となる学会寄進の寺院・大法寺が建立。戸田はこの落慶法要に参列した。あいさつに立った戸田は「御供養とは僧侶へのお世辞ではない」など、真の供養の精神について語った。

初の北海道総会に出席(戦後来道8)

1957(昭和32)年5月12日、戸田は、第1回北海道総会(札幌・中島スポーツセンター)に出席した。初の試みとして実施された地方総会であったが、北海道は、関西、九州に続いての開催となった。この席上、北海道に総支部が設置。戸田は、正しい信仰こそが幸せの源泉であることを語った。この直後、学会員への不当な抑圧を続けていた夕張炭労が、弾圧を本格化し、「夕張炭労問題」が惹起。基本的人権の柱である「信教の自由」への干渉が始まるのである。一般紙では学会との対決姿勢を露わにする見出しでにぎわい、炭労側では学会締め出しの具体的スケジュールが指示されるなど日を追うごとに圧力を高め、6月28日、ついに炭労側は対決日程を通告。しかし、不可解なことに、翌日には急遽、対決の無期延期の要請がなされ、日程は突然白紙に。炭労側は一方的に退却してしまったのである。それぞれ目的と使命が違う労働組合と宗教団体が対立するというのは、そもそもおかしなことなのである。炭労側の抑圧が本格化する直前の5月に行われた北海道総会で「個人の幸福は、正しい信仰以外にはできないのです」との戸田の指導は、その核心をつくものであった。



第1回北海道総会にて講演

昭和32年・第1回北海道総会にて講演

最後の北海道訪問(戦後来道9)

夕張炭労問題から1カ月余の1957(昭和32)年8月18日。第1回北海道青年部体育大会「若人の祭典」(札幌・美香保グラウンド)が開催された。1954(昭和29)年に東京で体育大会が行われて以来、初の地方での開催となった北海道の体育大会に戸田が出席した。開会前には、新結成された夕張支部に支部旗などを授与した。
そして同月20日には夕張支部結成大会(夕張・日活映画館)に出席、世間の言葉にとらわれず、信心一途に幸福な生活を、と激励した。このあと午後からは、興隆寺の落慶法要に参加。席上、「むかしから、僧俗一致ということが、我が宗内では叫ばれている。ところが、僧俗一致していたような寺はなかった」と語り、僧侶に間違いがあるなら、正々堂々と忠告すべきことを述べた。



第1回北海道体育大会

第1回北海道体育大会にての戸田第2代会長と池田第3代会長(当時・青年室長)

釧路の「鶴公園」に寄付

通称「鶴公園」と呼ばれる「釧路市丹頂鶴自然公園」。1958(昭和33)年の開園だが、その前年、絶滅の恐れのある特別天然記念物のタンチョウを保護しようと公園開設の寄付を募った。それを聞いた戸田は「大事なことだよ。人間は、自分たちが地上の支配者であるかのように思い上がり、自然を破壊していけば、大変なことになる。自然を守ることが、人間を守ることにもなる」と語った。人間と環境の不二なる連関を知る仏法者としての信念の言葉であった。そして、すぐさま50万円を寄付。当時の公務員の初任給が1万円もしない時代である。
公園開設の当時、わずか十数羽と絶滅の危機に瀕していたタンチョウも、今日では、道東で9百羽ほどが確認されるまでになっている。

釧路市丹頂鶴自然公園にて

釧路市丹頂鶴自然公園にて

釧路市丹頂鶴自然公園

釧路市丹頂鶴自然公園

厚田村の栄誉村民に

1999(平成11)年、厚田村議会では、翌2000年が戸田第2代会長の生誕100周年にあたることから、村議会議員全員の賛同で戸田第2代会長に厚田村「栄誉村民」の称号を贈ることに決定。12月1日に授与式(厚田村総合センター)が行われた。これは、1977(昭和52)年に、池田名誉会長が第1号の「栄誉村民」となって以来の授与式。牧野健一村長は「大先輩であり、尊敬する戸田第2代会長は、私たち村民の誇りです」と語った。

厚田村栄誉村民称号

厚田村栄誉村民称号

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