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牧口常三郎(まきぐちつねさぶろう)
民衆の中で、民衆の幸せを目指し行動し続けた牧口常三郎初代会長。
その初代会長が青少年期の貴重な16年を過ごし、また、教育界での縦横の活躍や、布教の先駆の活動を展開した大地・北海道。
そのロマンの地に育まれた種は、やがて凍てついた大地を割り、今では幾多の希望の花として全世界へ広がっている。



青年教育者として


 誕生の地・荒浜

初代会長・牧口常三郎は、1871(明治4)年、現在の新潟県柏崎市荒浜で渡辺長松とイネの長男として生を受け、長七と名づけられた。長松は船乗りだった といわれているが、賃雇いの船乗りたちの暮らしは厳しく、長松は幼いわが子を残し、北海道へ出稼ぎに渡り、消息を断ったといわれている。やがて母・イネは 再婚し、長七は6歳の時、長松の姉の嫁ぎ先である牧口善太夫の養子となる。


戸田記念墓地公園
 砂浜を黒板にして

長七は小学校にあがると、読み書きに興味を覚え、新しい知識をどん欲に吸収した。家の仕事の手伝いで学校に行けなかった日には、きまって長七は浜辺で同級生と待ち合わせ、砂浜を黒板がわりにその日学校で習ったことを教えてもらうのだった。


 向学心に燃えて~北海道へ

当時荒浜では麻で編んだ漁網の生産が主な産業であったが、外国からの安価で強い綿網により、生産にもかげりが見えはじめていた。荒浜は漁網の交易を通じ て、徳川時代、北海道で唯一の藩だった松前藩とのかかわりが深かった。――北海道に行けば希望が開けるかもしれない。1885(明治18)年、14歳の長 七は北前船に乗って故郷を後にし、新天地・小樽に向かった。


 「勉強給仕」から青年教師へ~小樽

そのころ、港町・小樽は、北海道随一の都市だった。長七ははじめこの小樽に住み(現在の勝納町あたり)、小樽警察署給仕の職に就いた。仕事がないときは決 まって読書をする長七を、警察官達はだれということなく「勉強給仕」と呼び、親しんだ。1889(明治22)年、署長で小樽郡長も兼ねていた森長保は、 17歳になった長七に札幌の北海道尋常師範学校への入学をすすめ、推薦した。そして牧口は見事に入学を果たし、寄宿舎(当時の札幌区北1条西3丁目、現・ 札幌市中央区)を住居とすることになる。


 ユニークな作文指導~札幌

師範学校の4年生の時、牧口は教生(教育実習生)として師範学校付属小学校の女子クラスを担任した。その当時から作文は、教科書もなく、できる子とできな い子の差が大きく開く科目だった。牧口は、作文の苦手な子も楽しく参加できる指導法はないかと考えた。そして思いついたのが、まず基本の文章を見せ、それ をマネて子どもと一緒に別の文章をつくり、そして最後に子どもたち自身でアレンジさせていくという方法だった。このときすでに牧口は「文型応用主義」によ る作文指導法の原形を編み出していたといえる。
北海道尋常師範学校を卒業
北海道尋常師範学校を卒業
(3列目左から2人)


 上川地方に修学旅行

1891(明治24)年には師範学校生と共に、上川地方に修学旅行に出かけている。翌年には石狩、樺戸、空知地方へも修学旅行に出かけている。


 北海道辺地教育の先覚者

優秀な成績で北海道尋常師範学校を卒業し(この頃名前を長七から常三郎に改めている)、同校付属小学校訓導(教師)となった。そこで自ら進んで受け持った のが「単級学級」だった。単級学級とは、学年の違う子ども達が一つのクラスで学ぶ学級のことで、当時人口が少ない北海道では、この単級教室の学校が全道の 9割を占めていた。牧口は本格的な「単級教育」の研究に取り組み、その報告論文を新聞(『北海道毎日新聞』)や教育雑誌(『北海道教育雑誌』)に発表し た。その結果、北海道の多くの教師たちが単級教育の研究に関心を持ち、北海道の単級教育は次第に発展していった。



惜しまれて北海道を去る


 北海道初の文検(地理科)合格

1896(明治29)年には難関といわれた文部省検定試験(いわゆる文検)の「地理科」に北海道で最初の合格を果たし、中学校地理科の教員免状を取得する。


 千歳、苫小牧そして江差へも足を伸ばす

1898(明治31)年6月には、師範学校生を引率して千歳、苫小牧、登別、洞爺、室蘭へ修学旅行に出かけている。また、8月には江差(現・檜山郡江差町)を訪問している。


 惜しまれて北海道を去る~『人生地理学』発刊へ

その後、1899(明治32)年には28歳の若さで同付属小学校校長にあたる主事事務取扱に就任した。1900(明治33)年には師範学校の生徒を引率 し、手稲山(現・札幌市西区西部)に登山している。その一方で、1901(明治34)年、周囲から惜しまれながらも、さらなる飛躍を求めて上京した後は、 北海道で構想を温め執筆を開始していた原稿に「人生地理学」と名付け、1903(明治36)年10月15日に発刊した。この時、当時地理学界の権威であっ た志賀重昴は出版のための具体的なアドバイスや、さらに原稿の校閲も引き受けている。この本は当時の地理学の観念を塗り替えるほどのインパクトをもち、当 時台湾総督府の技士で、法学博士、農学博士だった新渡戸稲造など著名な学者たちに深い感銘を与えた。


 上京後初の北海道訪問~札幌、小樽へ

上京後も、牧口は教育講演会などで、たびたび北海道の土を踏んだ。上京後再び北海道を訪れたのは1906(明治39)年の夏である。北海道教育会主催によ る第19回夏期講習会に招かれ、8月19日から21日にかけて札幌女子尋常高等小学校で人生地理学上の所見を講演している。また23日には、小樽市の稲穂 女子小学校においても「港湾の価値」と題して講演した。


 郷土会と農村調査~瀬棚、岩見沢へ

1910(明治43)年、文部省の嘱託として地理教科書の編纂等に従事していた牧口は、以前から関心を深めていた郷土研究を進めるため、新渡戸稲造を中心 に結成された「郷土会」に入会。柳田國男などとも親交を深めた。1915(大正4)年8月には瀬棚村(現・瀬棚町)で開催された檜山教育会主催の教育講習 会の講師として来道、19日から月末まで滞在し講演している。さらに、1917(大正6)年8月12日には、岩見沢尋常高等小学校において開催された正教 員養成の講習会(空知教育会主催)で「地理教授に於ける自然現象と経済現象」との題で講演。同教育会の会員173名が集った。


 弟子との運命的な出会い

牧口は上京してからの後半生43年間のうち、約20年間は、小学校校長を務めている。1920(大正9)年、西町尋常小学校校長だった当時49歳の牧口は20歳の戸田甚一(後の戸田城聖・創価学会第二代会長)と出会い、同校の臨時代用教員に採用している。以後戸田は牧口を人生の師と終生仰ぐことになる。
牧口初代会長と戸田第二代会長
牧口初代会長と
戸田第二代会長


 日蓮仏法との出会い

特定の宗教を信仰してはいなかった牧口だったが、1928(昭和3)年、日蓮仏法と出会う。信仰は牧口に「言語に絶する歓喜を以てほとんど60年の生活法を一新する」ほどの変化をもたらした。


 『創価教育学体系』発刊

牧口は、独創的な自分の教育理論を、おりにふれ広告紙の裏やメモ用紙に書き留めていた。戸田はその学説の体系は自分が出版しようと決意した。「先生の教育 学の目的は何ですか」「価値を創造することだ」「では、先生、創価教育と決めましょう」こうして、1930(昭和5)年11月18日、『創価教育学体系』 第1巻が発刊された。奥付には「発行所・創価教育学会」とある。その日は、牧口と戸田の「創価教育学会」創立の日でもあった。また、この教育学説は、発刊 から70年を経て、現在世界9カ国語に翻訳され、ブラジルなどでは「牧口プロジェクト」と名付けられ実践されるなど、世界の注目を集めている。



創価教育学会会長に


 「郷土教育」講演で岩見沢、札幌

1931(昭和6)年7月27日から29日にかけて、岩見沢高等女学校で「郷土教育」についての講演会を行い、161名が受講している。続いて8月1日から3日まで、札幌市女子高等学校でも講演している。


 昭和7年には旭川、十勝、釧路を訪問

さらに1932(昭和7)年夏にも、上川教育会の招聘で7月1日から7日まで東川尋常高等小学校、富良野尋常高等小学校、風連尋常高等小学校と「指導教 授」と「郷土教育」の講演を行った。さらにこの後、十勝教育会の招きで清水小学校、帯広公会堂、池田小学校で同様の講演を行っている。さらにこのあと、釧 路、根室にも足を伸ばし、巡回講演を行っている。


 昭和13年に、札幌で座談会~帯広、釧路、根室、網走、北見、室蘭にも

1938(昭和13)年6月にも来道を果たしている。この時は、帯広(9日・帯広商工奨励館)、釧路(10日・日進小学校)、根室(12日)、網走(13 日)、野付牛(現・北見市、14日)、札幌(16日、17日・札幌市時計台など)、室蘭(18日・室蘭女子小学校)などで講演した。また、19日には札幌 市時計台において座談会が行われた。これは、今日道内各地で毎月実施されている創価学会座談会の、記念すべき道内第1回の会合といえる。この時の来道以 降、牧口初代会長が北海道の土を踏むことはなかった。


 創価教育学会会長に就任

1940(昭和15)年10月、創価教育学会の第2回総会が開かれ、空席だった会長に牧口が、戸田が理事長に就任した。


 尊厳なる獄中の死

1941(昭和16)年3月、希代の悪法「治安維持法」が改正され、軍部政府は戦争遂行のために、さらなる思想・宗教の統制強化をはかろうとした。12月 の対米戦争の開戦を迎えると、神札を祀るよう全国民に強制されるようになる。牧口は、自らの信念をつらぬき、真っ向からそれと戦って投獄され、 1944(昭和19)年11月18日、享年73歳の尊い生涯を殉教の誉れで閉じたのである。



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