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その後、1899(明治32)年には28歳の若さで同付属小学校校長にあたる主事事務取扱に就任した。1900(明治33)年には師範学校の生徒を引率し、手稲山(現・札幌市西区西部)に登山している。その一方で、1901(明治34)年、周囲から惜しまれながらも、さらなる飛躍を求めて上京した後は、北海道で構想を温め執筆を開始していた原稿に「人生地理学」と名付け、1903(明治36)年10月15日に発刊した。この時、当時地理学界の権威であった志賀重昴は出版のための具体的なアドバイスや、さらに原稿の校閲も引き受けている。この本は当時の地理学の観念を塗り替えるほどのインパクトをもち、当時台湾総督府の技士で、法学博士、農学博士だった新渡戸稲造など著名な学者たちに深い感銘を与えた。
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